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長瀞岩畳は地底から武甲山が連れ帰った!?

兄貴のリクエストでこのページは太郎がプロデュースしています。

岩畳で有名な長瀞は武甲山から見ると北へ十数キロのところにあります。
(googleから地図を拝借)

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ナウマン博士

ナウマンびっくり〜!

長瀞には「日本地質学発祥の地碑」があります。

それは1878年(明治11年)東京帝国大学地質学教室の初代教授ナウマン博士が、当時既に岩畳で有名な景勝地だった長瀞に学生らを伴ってやってきたときのことです。
半分観光気分で「変わった岩だと?俺が見てやる!」的な勢いで(私の想像)来たのにその岩畳を調べて「なんぢゃこりゃ〜!」とびっくり仰天した(半分想像)のです。
その後日本中を縦横無尽に1万キロも調査して回るきっかけになるほどに・・・
(当時ですから、調査は馬や徒歩ですよ!)

※岩畳:ヨーロッパではあり得ない結晶片岩。当時の理論では説明が付きません。

研究者魂に火が付いたナウマンですが、「あちこち調査したいけど、自費で調査旅行するのもなんだし・・・」(半分想像)と思い、政府に「地質調査機関作らない?日本の発展には必要だよー」と取り入って、まんまと地質調査所を創立させ、調査責任者として(もちろん公費で)日本列島の地質調査をして回りました。
もちろん、その研究成果は大いに国益になったので政府もナウマンもGJっす!

ナウマン博士のプロフィール Heinrich Edmund Naumann: 生1854年-没1927年
ドイツの地質学者。1875年(明治8年)〜1885年(明治18年)、明治政府に招かれて日本に滞在。東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授に就任。地質調査所(現:独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)の設立に関わり、調査責任者として日本列島の地質調査に従事。
日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成。またフォッサマグナを発見したことや、ナウマンゾウに名を残すことで知られています。
シーボルトや森鴎外とも係わりがあります。

よっぽどの天才だったのか、明治政府の役人が勇者だったのか21歳で地質学者として来日ですよ! で、そのまま東大教授・・・数々の偉業・・・スゴスギです!
しかし、当時の地学とはどんなものだったのでしょう?
ウェゲナーの「大陸移動説」は1912年の発表ですし、それを発展させ今主流のプレートテクトニクス(プレート理論)は1960年代後半以後、ましてや「付加体」の話しはごく最近のものです。

その岩の秘密とは

ナウマン博士を驚かせたその岩の正体は結晶片岩という変成岩。(〜〜片岩という名前の岩はみんな変成岩)
変成岩というのは、一度岩石に成ったもの(源岩)が環境(温度や圧力など)の変化でその岩石を構成する鉱物の組み合わせや、岩石の構造が変化したものです。多種多様にあります。
その中でも長瀞の岩畳は低温高圧という環境の作用で変成岩になったものです。

実は、古い地学の常識にこの低温高圧っていう環境がないんです!
高圧になるためには30kmぐらい地下じゃないとダメだし、そのぐらい地下になると熱くなっちゃうし・・・それじゃ高温高圧じゃん・・・という具合に。

でも、あったんです。そういう環境が!
それは、プレート境界から少し潜り込んだあたり。
海洋プレートは冷えきっている上に、水をたくさん含んで大陸プレートの下へと次々潜り込んでいきます。そうすると、深さの割にかなり温度の低い状態の部分が出来上がるのです。

まだ執筆中(図とかも書いてます)こうご期待

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