削られすぎだよ!武甲山。
このページは武甲外羅の弟子:太郎がプロデュースさせていただきます。
武甲外羅兄貴が古い武甲山の写真をみつけたから見てほしいとのことで、見てみると???同じ山に見えない・・・ということで
武甲山がどの位削られて小さくなってしまったか考察したのでそのご報告。
1939年(昭和14年)頃 |
2006年5月(筍掘りの嶽頂山東林寺の竹林から) |
武甲外羅兄貴が見つけてきた1939年(昭和14年)頃の武甲山と、私が嶽頂山 東林寺境内より2006年に撮影した写真である。
ふたつの写真を見比べても、その山は全く別物のようにも見える。同じ山に思えないのだ。
兄貴の記憶では半世紀前は武甲山は今とは全然違って、古い写真のように大きく、ふっくらとした山だったという。
しかし、よく見ると手前の稜線などが一致する部分がある・・・。もしや、ほぼ同じアングルから撮影されたものに違いないと確信した。
そこで、新しい方の写真から、主な稜線をトレースして比較検討してみることにした。
このように主な尾根筋や谷を青で、現在の稜線を赤でなぞり・・・
その線だけを古い写真に持ってきて合成したのがこれである。
ぴったりと尾根筋が合致している!間違いなく同じ山である。
それにしても、凄い削られ具合には改めて驚愕!
削られた量がどんなだったかが一目瞭然になった。
太郎
ついでに武甲山の生い立ちについて書いてみました。
日本列島の創世秘話を含む大作です。よろしかったらどうぞ。
武甲山は昔、ハワイだった
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太郎ちゃんの「武甲山解体新書」
太郎ちゃん
凄げぇ、ビックリだ、一目瞭然だ
20年以上まえころだったろうか、「武甲山」に帰ってみたら悲しくなった
50年前の「武甲山」はふっくらしていたんだ
観てのとおりの無惨な姿、外羅が棲んでいたところを見つけることができなかった
その日から、
ホームレスのキツツキ「武甲外羅」ということにした
インターネットって奴が、誰でも使えるようになったころだった
E-mailアドレスってやつを取得した
アカウント名は武甲外羅をbukogeraとした
bukougeraとしたかったが、文字数8との制限がありこうなった
プロバイダの名は、bekkoame
ここの創業者のお兄ちゃんはフェラリに乗ってカッコつけてた
ネットバブルのはじまりだった
きょうここに、
こころに思っていたものが、映像になった、太郎ちゃんのおかげだ
あまりにもリアルすぎる、毎日見ているとわからないのかもしれない
恐ろしい
88年に亘っての削りとられた骨肉は、200000000000Kg
質量全体の1/4にあたる
麻酔なし、メスではなくダイナマイトによる発破だ
さぞ痛かっただろう、外羅は悲鳴を羽で感じた
青い線の八の字のところが確か丸山というところだった
みどりいっぱいの遠足コースだった
仲間もいっぱいた、今はどうしているのだろうか
このペースでいくと、
そう遠ないうちに、武甲山・御岳神社の神様も
外羅と同じようにホームレスになってしまう
武甲山の手前の丘陵は「羊山」だ
羊牧場のある公園になっていてた
小さな秩父盆地は一望できた
武甲山・御岳神社の神様と秩父神社の神様のデート
それは、毎年12月3日の夜、
秩父人はこいつをお祭りにしちゃって
秩父夜祭りと呼んでいる、秩父神社例大祭だ
町中が屋台囃子で腹まで響く.......
秩父神社の神様はご神馬にのって
お付きは6台の豪華山車(屋台・笠鉾)に屋台囃子だ
デートの場所(お旅所)についたころ
この丘陵から、尺玉が高射砲のごとく夜空に向かう
尺玉は天空で炸裂し、大輪を咲かせる、満天☆も遠慮がちだ
大きな音が全身に轟く、小さな盆地にこだまがかえる、
デートが終わるころには日付が変わる
6万人の小さな街は、この夜だけは20万人を超えるお客様で溢れかえる
江戸・徳川幕府は、質素・倹約を強いた
明治・薩長幕府からは、戦争するするのに邪魔(金の無駄遣い)だから、と
中止や自粛を強要されたとも聞く
でも、づ-ぅっと、神様のデートと屋台囃子
そして、平和の証の高射砲は撃ちつづけなければならないのだ
左側の煙突は、秩父セメント秩父第一工場のものだ
手前の屋根は社宅群(だと思う)
長い屋根は事務棟(だと思う)
思い出しながらつづきを書くこととしたい
2011/04/19
外羅
(文言の一部に、2010/11/30の朝日新聞「藩に背いた 秩父の気概」を引用した)
今、外羅の里にいる。
暫くぶりに、武甲山を仰がせていただいた
亡妻の墓参に、春一先生運転のクルマでおつきあいいただいた
そのうえご馳走になって、
竹馬の友、晃くんともども武甲山を語る鼎談だった
外羅はイジメられっ子だったことが、暴露されてしまった
50年以上まえの武甲山などなど..... 話が弾んだ
太郎ちゃんの、「削られすぎだよ!武甲山」
酒の肴にはちょっとだけ、重たかった
きょうの武甲山をIXYにおさめた
あさって、武蔵浦和で報告したい
2011/04/23
外羅
写真・映像ってやっばり凄いね。 芝桜は見ごろ..... でも、武甲山が痛々しい.....
IXYって奴は、チビだけど頼りになるね。
外羅が撮っても、何とかさまになってるように見える。
被写体と道具がそうしてくれているのだろう。
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Canonet |
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IXYを作っている会社の、当時新入社員のスーパーエンジニア(GK氏)が創っちゃったのが「 Canonet 」だった、と、うかがった。
このカメラは「露光が適正でないとシャッターが切れない。」世の中では「バカちょんカメラ」と呼ばれた。
めんどっ〜くさい適正な露光量はカメラが自動的に決めてくれちゃうってとんでもない代物。お代は、確か18,800えんか19,800円、銀色した箱に入っていてプレミアムをつけても手に入らなかった。初月給で買える価格ではなかったと思う。
今では、露光量は勿論、ピントあわせもカメラが勝手にやってくれて、素敵な写真しか撮れなくなっちゃたけれど、とにかくこいつは、画期的なカメラだったんだ。カメラを持つことが憧れの時代、写真の大衆化の先駆けとなった。
その生産の多くを武甲山の麓の会社が担った、と、聞く。
1960年代のはじめころだったと思う。
現在は、外羅の里で唯一の東京証券取引所一部上場企業で、C社グループの高品質の精密機器の生産を担う超がつく優良企業になっちゃった。
きっと、DNAとかってってえのが受け継がれているんだね。
それから、武蔵浦和で渡したデジタル映像の幾つか、掲載方法を考えようよ。
2011/05/03
外羅
レンズの周りに、蜂の巣にようなものがあるが、受光素子のセレンっていう半導体らしい。
こいつで明るさを測って露光量を計算してたんだ。電子カメラの元祖ってことだ、と、思う。
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「Canonet」のネダンは、19,800円だとわかった。当時の学卒初任給は、20,000えんくらいだったらしい。これで買えるカメラを、ってことだった。
これだと、イチキュッパ198の元祖ってことになっちゃう。
今でいうマーケッチングなんてことばは知らなかったけれど、当時はこんな廉価なものを作ってって!?との激論もあったのではないか、と、想像してしまう。
それは、きっと、高級カメラといわれた「Leica」に追いつこう、そして追い越そう!!という、創業者で社長のDr.じいさまのお考えに背くものだったのかもしれない。....... でも、
お客さまとのインターフェイスを担う会社は、「CマーケティングJ」に社名を変えちゃった。
いつまでも、高品質で廉価な商品の提供をしつづけて欲しい。
2011/05/16
外羅