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「光陰矢の如し」

「光陰矢の如し」時計台
「光陰矢の如し」時計台

 半世紀の時を刻んでいる先輩の卒業記
念の時計台に光陰矢の如しと、
揮毫されたのは、怖い顔の優しいおや
じ、高野房一(三峰)先生だ。

左写真クリックすると、三峰先生の優
しい筆づかいをご覧いただけます。

 校庭での全体朝礼は、この時計台の前
で伊藤致和校長先生のお話からはじまった。

 1954年7月2日灼熱の太陽の下、
秩父宮勢津子妃殿下がお成りになられ
た。妃殿下はこの時計台を背に私たち
に優しいおことばをかけてくださった。

 室内朝礼の有線放送では、外羅の出番がちょっとだけあった。
 放送室のとなりの校長室に訪って「全校のみなさんおはようございます。最初に、校長先生に朝のごあいさつをお願いします。」との、アナウンスから朝礼がはじまった。
 放送局の名前は「HK」ならぬ「HK」。
 教室には最新型の拡声器(今は、スピーカーって呼んでいる)がやってきた、外羅の教室では教壇に特製の座布団が用意された。拡声器先生も座布団に座ると声がよくなる。と、逸見榮夫先生の奥さまの手縫いのものだった。
 週に何回かあったNHKのラジオ放送による授業。スピーカー先生は教壇の座布団に正座していっぱい語ってくれた。「マイク街を行く」という授業は、九州の炭坑や京浜工業地帯の話(今で謂えば、煙突もうもう??日本の未来って感じ........ )、北海道や東北・北陸の話などなど、 造船の技術は世界に誇るものだ、というのもあった。山の中の小さな学校に知らないことをたくさん運んできてくれた。
 テレビの放送が始まり、宗谷が南極に向い、東京タワーの建設がはじまったのもこのころだった。
 修学旅行はお江戸で皇居前の楠木正成の銅像、GHQの星条旗、キャデラックって謂う外車を見たのははじめてだった。

Sony H-1

 大きな1枚板のガラスで仕切られ立派な放送室も用意された。放送局のスタジオと同じだいうことだった。
 井深 大翁が開発されたハイテク最先端の宝物、ソニーのテープレコーダも設備された。ワクワクした、自由に触って確かめた。
 ソニー社秘書室で調べていただいたモデル名は「H-1型」で、ソニーのテープレコーダ2代目にあたる代物だった。
 
 虎の門(現在の文部科学省のことをこう呼んでいる。)から補助金・助成金とやらがくっついて、視聴覚教育指定校とか研究校とかの看板をあてがわれてのことだったらしい。

 伊藤致和校長先生から、声のとおりがいい(声が大きいだけ)から「放送委員とか視聴覚委員」とかってのをやれということになってしまったらしい。

 このあとの始末が悪い。
 この宝物、あっちゃんのソニーテープレコーダ「H-1」のマイクに向かった。
 再生した、自分の声を聴くのははじめてだった、感激だった。
 校長先生の大事なお話は、見事?なまでに外羅の声に吹き替えられていた。
 でも、お咎めをうけることはなかった。

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